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特別の例として一九四二(昭和一七)年に皇室や官庁用の高級乗用車を開発して欲しい、という要請が固からあり、『大型B』という豪華な四、ドアセダンが試作されたことだ。
一九四四年一月にただ一台完成したこのクルマは、当時のアメリカの大型車に範をとった堂々とした出来栄えだったが、量産されることなく、また官庁に納入されることもなく、戦後もT社内で一九五01五一年ごろまで使用された。
一九四八年に、本社内に設置された工芸係こそ、現在のTのデザイン部門の鴨矢となるものであった。
それは、それまでボディ設計係ということで、デザイン的なものも構造的なものも一緒に行っていた部署がもとになったものであった。
その顛末については、当時ボディ設計係長をしていたM氏(のちにデザイン部長、製品企画室主査。
Tを退社後、東北工大、千葉大の教授を歴任)の著書『Tのデザインとともに』(昭和五九年・山海堂刊)に詳しいので、引用してみたい。
「私が係長をしていたボディ設計係は、人員も充実し、何よりも私をはじめとする工芸係の人達が自動車のデザインの仕事に近づくべく決意して、先ず車体の構造部分の設計を、Hさん(H氏、後に専務・技監。
筆者註)を長とする構造係として分離した。
そして外形スタイリングと内装関係、照明補機関係を担当するグループを工芸係とした。
ここに後にデザイン課を経てデザイン部に成長する萌芽が誕生した」一陶白いのは、この記述では現在でいう車体設計部門のほうが分離した存在であり、もとからあったほうが、工芸係すなわちデザインを担当する部円であったというように読めることだ。
M氏は東京高等工芸学校(千葉大学の前身)工芸図案科の出身だから、まさにデザインの人間なのだ。
彼は一九四O年にT自動車に入社したのだが、その経緯は創業者、Tのデザインに対する意欲を知らずには語れない。
同書の冒頭にはこんな記述がある。
「その当時は、工芸図案家とはせいぜいポスターを描いたり、食器や家具や照明器具の形や文様を考える人、と理解してもらうのがやっとの時代だった。
だが、愛知県の真ん中あたり、名古屋からも岡崎からも距離のある挙母という田舎町にあるその会社は、少なくとも創業者たる副社長だけは、デザインの重要性をとうに知っていた。
当時、機械を生産している会社に、図案科出身者が就職したとしても単に絵がうまい学生が入ってきた、社内印制物の表紙か製品につけるマ-クでも描いてもらおうか、程度の受けとり方しかされなかった時代である。
そんな時代に、その会社の最高責任者がデザインの重要性を認識しその方面の人材を積極的に求めていた。
私はその求められた者の一人として創立間もないT自動車に入社した」創業者、T喜一郎の思いは戦後になってようやく実を結んだ。
工芸係長となったMによってデザインされた乗用車『SA型』は、まだ日本経済が立ち直らない時期とあって数こそわずか二一五台しか生産されなかったが、純国産のデザイン、メカニズムをもつ意欲的な二ドアの小型乗用車として一九四七(昭和二三)年にデビューしたのであった。
公募によって命名された『卜ヨペット』という愛称を冠した初めてのクルマであり、やがてヒット作となったトヨペットクラウンへとつながる、T自動車の乗用車の成功の前駆的なものとして、高く評価されるべきものといえるだろう。
戦後まもなくのころの日本の自動車産業は、GHQの乗用車製造禁止令やドッジラインによる超デフレ政策などによって、深刻な経営危機に立たされていた。
Tも例外ではなく、戦時中の残った材料で、ナベ、カマやスプーンを作って露命をしのぐといった時期もあり、ようやく自動車(貨物車)の生産を再開したのちも不況が続き、大量の人員整理を余儀なくされた。
それに反発した労組の大争議もあってまさに危急存亡の危機に陥っていたのだった。
その苦境を救ったのは、一九五一(昭和二五)年に勃発した朝鮮戦争であった。
米軍から大量の自動車の発注があり、TはBMU型と呼ばれる標準タイプのトラックを五000台ほど受注し、さらにときを前後して発足した警察予備隊からも九五O台受注することになった。
いわゆる朝鮮特需であった。
だが、この時期、新刑型占研究は続行するものの、現実には延期するという方針だったため、デザインの活動は休止状態になった。
そうした中にあっても、デザインを磨こうという意識はあった。
工芸係長だったMは挙母(現・T市)という田舎の町にいたのでは、文化的なセンスにおいて遅れをとるのではないか、ということから東京勤務を申し入れ、一九四九年に墓墨事務所の企画課技術係長として赴任して中央の空気に接することになった。
ただその当時、Tはボディプレス用の大型プレス機を持っていなかったこともあって乗用車は関東自動車鮒や荒川車体(現・アラコ側)、中日本重工(現・M自動車鯛)に発注して製造するという状態だった。
それらの工場でもかなりの期間、プレスではなく手叩きという原始的な工法てタクシー用のボディを作っていたくらいで、デザインとはいえない程度のものにとどまっていたのである。
しかし、一九五一年になると、ながらく不振だった業績が回復したこともあり、本格的な乗用車の開発作業が開始された。
初代クラウンの胎動、であった。
工芸係も案を出したが、当時はクレイモデルで検討を行うということはせず、設計部門が線図を描きそれをもとに直接、手叩きで原寸大の板金ボディを作ってしまうというものだった。
もちろん、トラックのような大きなものではクレイモデルでの検討を行ったが、モデルショップといわれる作業場がなかったため、デザイナーは自席の机の上で粘土を盛って四分の一モデルなどを作っていたようだ。
それはともかくとして、クラウンとその営業車型であるマスターが誕生したのが、一九五五年(昭和三O)のこと、であった。
創業者として本格的な乗用車造りに意欲を燃やしていたTは、このクルマの完成を見ることなく、一九五二年三月に脳溢血で急逝していたが、彼の願望はクラウンの成功によって叶えられたといっていいだろう。
クラウンの登場によって、Tのデザインの歴史の幕が聞いた、といってよい。
それまでは、デザイン以前の時代でありクラウンという乗用車の成功が、現在のTの発展の基礎となったことは周知の事実であるが、Tにおけるデザイン活動もここを起点として本格的に動きはじめたのである。
クラウン発表の直前-一九五四年の秋に技術部は大きな組織改革が行われた。
開発の主査制が発足したことても注目すべきだが、それまでの工芸係から電気関係の設計部門を分離し、工芸設計課としてデザインとレイアウトを担当することになったのも、特筆すべきことである。
それまでは、新しいカタチをつくる場合には図面を引き、それに合わせて原寸大の木型あるいは、先にも述べたように直接板金で作っていたが、クラウン開発のときから部品について工業用クレーや石背を使って形状の確認を行うようになり、さらにボディ本体についてもクレイモデルを使うようになった。
開発番号をつけることも、このころに始まった。
最初に開発番号が与えられたのが、初代パプリカで『1A』と命名され、外観デザインも初めて五分の一のクレイモデルを使ったものであった。
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